力をゆるめて自由に書く

制限はあまりない

芸術方面の「売れる/売れない」の差分を考えてみる - 結局「受け手にどれだけ得をさせてあげられるか」だと思った

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私は音楽が好きで、それなりにライブに行く。

ひとこにプロといっても、きわめて様々な段階がある。
先日たまたま、小規模なライブと大規模なライブに立て続けに参加する機会があって、なんとなく思うところがあった。

比べること自体がナンセンスとは思うけれど、どうしても両者の違いを考えたくなってしまう性分なので困っている。

おそらく、こういうことを考えている人はごまんといて、関連の書籍を読めば、それらしい答えが見つかると思うのだけど、自分の頭で考えてみたい

前提

まず前提として、決して「売れている=正解」とは思っていない。

売れずに悶々としている人にしか生み出せないものもあるから。
どうしようもなく行き場のないエネルギーの塊は、だいたい輝いている。

年齢を重ねたせいか、最近はそういうものを美しいとか、うらやましいとも思うようになってきた。

逆に、有名になれば、諸々の窮屈さにがんじがらめになるから、そっちのほうが大変そうだなあと思う。
一人の人間という観点で見たとき、売れすぎないほうが健全かもしれない。

ほどほどにファンがついて、生活に困らない程度の収入になるくらいが、いちばん楽しいのではなかろうか、と個人的には思っている(いやまあ、それ自体が非常に高いレベルなのだが)。

売れる/売れないの差分

「売れる」に至るまでにはかなり多くの要素があり、正直「運」の要素はかなり大きかろう。

とはいえ、やっぱり何十年も一線で活躍するレベルの人というのは、何かしら特別なものがある。それも、ひとつやふたつでなくて、複数ある。

いくつか思いつくものを考えてみたいと思う。

売れている人にありがちな要素

 

①技術力

以前、TV番組で、プロのバレリーナと学生さん(といっても何かの大会で優勝するレベル)の足元を映しただけでどっちがプロかを見極めるというのがあった。

私は踊りは苦手だし興味もないので、全然わからないだろうな、と思っていたのだけれど、プロのそれは明らかに違った。
第一歩目の、つま先を出す瞬間にわかった。
ただつま先をひょいと出すだけなのに、そこに物語のようなものを感じてしまった。周りの空気が動くのが見えた気さえした。
まさに「はっ」となった。

上手いと称されるミュージシャンでもおそらく同じことが言えて、「はっとさせられる音」が頭から終わりまで隙間なく連続していく。

そういう「はっとさせられる音」はおそらく、そこそこうまいレベルの人にも出せるだろう。
ただ、良いコンディションというか、集中が必要なのではないかと思う。
一瞬でも気を抜くと、わからないほどわずかな、質の低下が起こりうる。
ごくわずかなのに、意外と聴いている側に伝わってしまうから不思議なものである。

頭から終わりまで、すべてを「ハッとなる音」で埋め尽くすことができる(しかもライブだとそれが2時間以上続く)ようなプロというのは、それが彼らにとって「ふつうに出せる」から出せるのだろうと思う。

輝く音をふつうに出すには、もちろん練習も関わっているけれど……
練習を重ねるには、長時間携わっていても苦痛でない、むしろ楽しいという感覚の持ち主であり……それはもう、いわゆる”才能”ということであろうと思う。

②飽きても生み出し続けられる

①と少し重複するのだけど。
売れている人たちは、「まだ出せるんかい」とこちらに思わせるほど多作なことが多い(※)。
これは音楽だけでなくて、小説家とかでも結構見かける。
質もある一定以上を保ち続けているからすごい。

おそらく作り手としても飽きはあるのだろうけど、都度新しい試みを取り入れたりしてちょっとずつ進化している。
その結果、世の中の変化に対応できているわけで、やはり息が長くなる。

(※)もちろん、寡作パターンの人もいるが、多作だとそのぶん人目につく機会が多いので、広く認知されやすい気がする。

③ 余計な力み(りきみ)がない

たくさん出せるということは、(いい意味で)ほどほどに力を抜いて作っているということだと思う。
人間、意志の力で頑張れる量は決まっているから。

頑張りすぎて作ってしまうと、頑張った感が作品に現れてしまうことがある。
私はいつからか、小説を読んでいるときに「ここたぶん、書くの苦しんだんだろうな」とわかってしまうようになり、そういう頑張り感のあるものはなんとなく読めなくなってしまった……
(さらに年齢を重ねたら、またそういった「頑張り感」も美しいと思うようになるかもしれないけれど)

芸術は、消費する側からすれば基本的には「楽しむもの」なので、そこに「力み」が見え隠れすると現実に戻されてしまうのかもしれない。

そういう意味でも、「ほどほどに力を抜いてつくったもの」がちょうどよいと考えることもできるかもしれない。

ほどほどにつくったものがハイクオリティなのはもう、やはりセンスとかそういうことのような気もする……(元も子もない)。

④「私の気持ちを代弁してくれている」と思わせるのがうまい

音楽の歌詞に関して言えば、売れているアーティストなどは、聴き手に「私が言えなかったことをこの人は言ってくれている」と思わせるのがうまい。

これは狙ってやっている人と、自身の思いの丈をつづっているうちに結果的にファンがついてきたタイプの二種類いるだろう。

「気持ちの代弁」ポイントの一つは、歌詞の可塑性だと思う。

歌詞が具体的すぎると、響く人には深く響くけれど、あまり多くの人には届かない、ということが起こりそうである。

一方で、輪郭をある程度ぼやけさせると、聴き手が「これ、私のことだ!」と自分ゴトとして解釈をしてくれるようになり、結果的にファンが増えるのではないかと思う。

かといって、あまりにぼやけさせると「何がいいたいのかよくわからん」となるので、匙加減が微妙なのだが。

ここらへんのあんばいが天才的にうまいのがスピッツの草野氏だと私は思っている(すいません、ただのファンです)。

④ (意図的かは別として)結果的におもてなし精神

駆け出しの人や、「まだまだ上を目指すぞ」という段階にいると、どうしても自我が出てくるものである。

「頑張ります、応援してください!」マインドになるので、主語は「自分」になる。
それは当然のことだし、別に悪くもないし、年齢重ねるとそういう姿こそが非常にまぶしかったりもする。もちろんそのスタンスのまま売れていく人もいる。

一方で、長く売れ続けている人というのは、なんだかんだでおもてなし精神があるように感じる。
これもまた意識的にやっている人と、無意識的にやっている人がいると思うが、結果的に、「ある種のサービス精神」を感じるのだ。

気持ちのやりとりが一方通行でなく循環型というか。

わかりやすいところだと、ライブのMCで、会場周辺の話題や、その日の来場者に関連する話題を必ず入れるとか。
だれしも、「自分」に注目してもらいたいものなので、そこらへんの心理をよく掴んでいるなと思う。

小説などでいえば「突っ込み待ち」の文体は読んでいて思わずクスクスしてしまうし(参加型)。
ウェブサイトなら、とてもデザインにこだわっていて華やかで、見ているだけでワクワクできる仕様とか。

しかしこれらのサービス精神もまた、「お客さんの顔色をうかがう」にまでなってしまうと、客側もなんとなくの居心地の悪さを感じることになりかねない。
「サービスしたんだからファンになってよね」みたいな、隠された要求を相手も感じ取ってしまうから。

では、プロ中のプロは、どうしてラフな形でギブにできるのかというと、たぶん、自分のための音や文章は出し尽くしたから、というのが一要因ではないかと思う。

私は文章を書くのが好きなのだけれど、ブログを書き始めてすぐのころはとにかく「自分が自分が」と自我が出てきてしまって、自分でも辟易した(今もまだそうだけれど)。

広告収入を得たい派なので、「読者ファーストにしなければ!」と頭ではわかっているのに、「自分のために書きたいこと」が暴れてしまって、コントロールしきれなかった

最近やっと、書き尽くした感が出てきて、ちょっと楽になったというか、力を抜いて書けるようになってきた(気がしている)。

とか言うておいて、この記事も、私自身の思考整理のためであり、結局「自分」なのだけれど。

そういえば、このブログ自体、「もう忖度しないで好きに書きたい」という思いで立ち上げたのだった……
しかも、力を抜くつもりが、妙な長文になってしまった。
そこらへんが私という人間の限界である。

おわりに

芸術方面、とくに音楽関係を中心に、売れる売れないの差分を考えてみた。
・技術力
・飽きても出せる
・余計な力みがない
・代弁してくれている感
・ある程度のサービス精神

いまのところ思いつくのはこれくらい。
新たに思いついたら追記していこうと思う。

結局のところ、基本的に人間は「(気持ち的にであれ物質的にであれ)得をしたい」ので、受け手(観客、読者など)にどれだけ得をさせてあげられるかということになるのだと思う。
言い換えるなら、ありきたりだけど、どれだけ心を動かすことができたか。
でも、心は物理的には動かせないから、とても難しい。

ありきたりなところに落ち着いてしまった。